智異山の澄んだ空気と露を吸って育った長生ドラジ(ブロードベルフラワー)は、自然からの贈り物です。

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01. 驚きの体験

ある日、イ・ソンホという少年が、老人と一緒に山で薪を切っていました。その老人は、当時は既に高齢とされていた50代で、病気の体にも関わらず、薪を一杯に集めていました。 一休みしている間に、掘った根っこを食べて眠ってしまいました。暗くなってきたので、少年は老人を起こそうとしましたが、なかなか起こすことができません。しばらくして、一人で村に戻り、どうしても老人を山に置いてきたことを皆に知らせました。人々は、「老人は優れた薬草を食べたのだろう。すぐに目を覚ますはず」と、心配しないようにと言いました。
3日後、少年が老人の家に行ってみると、その老人はいませんでした。なんとその老人はまだ山の中で眠っていたのです。薪を集めて、ようやく老人を起こすことができました。病気が悪化して弱っていた老人は見違えるように元気になり、力強くなっていました。さらに、病状もどんどん良くなっていき、最終的には病気から回復したといいます。
その老人が食べていた根っこは、ドラジ(風船花の根っこ)であることが分かりました。ドラジの価値を身をもって知ることができたのです。昔の人が言っていたように、「古いドラジは野生の高麗人参よりも優れている 」と。

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02. 長く生き残ったドラジの栽培に挑戦

イ・ソンホは、「人間は一生の間に一つでも正しいことをしなければならない」という確固たる信念のもと、長寿ドラジの育成を決意しました。昔に生息していたドラジが瀕死の人の命を救うことができるのであれば、大量に栽培することで、一人でも多くの患者を救うべきだと考えたのです。洪水から人を救うことが賞賛に値する行為であるならば、ドラジで多くの人の命を救うことができれば、本当に価値のある有意義な人生を送ることができると考えたのです。そうして、長生きするドラジの栽培を始めたのです。
しかし、ドラジを育てるのは簡単なことではありませんでした。ドラジを長く育てる方法を知っている人は、一人もいなかったのです。彼は農業のために読み方を覚えたくらいで、多くの東洋医学の本を読みあさったものの、3年もののドラジの分析と効能を見つけただけだったのです。
様々な農法や肥料を使った自分の実験に、頼らざるを得なかったのです。しかし、何千坪もの土地に様々な方法で植えたドラジは、例外なく3年以上生きることができませんでした。その都度、畑を耕して種を蒔きました。それを何年も繰り返しているうちに、どんどん悪くなっていったのです。
ドラジを栽培するための借金がたまる一方で、子供たちはみすぼらしい格好になっていきました。村の子供たちもイさんのことを頭のイカレた奴だと馬鹿にしていたのです。
あこまま諦めてしまっては、自分を受け入れられないイ・ソンホは、塩のパックと鍬を持って智異山の無人の谷間に向かいました。人の否定的な考えがない場所でこそ、ドラジのことをしっかり考えられると思ったからです。些細なことを我慢して大きなことを成し遂げ、妻子の苦しみを無視する痛みにも耐えなければならないと考えていました。
ザリガニやカエル、葛の根を食べたり、仮設小屋の近くのドラギをすべて植え替えたり、野獣のいる山の中で見た目の違うドラギを交配させたりして、かろうじて生活しているうちに、だんだん人間らしくなくなってきたのです。髪の毛は乱れ、目は野生動物のように鋭くなっていました。シンマニ(高麗人参を掘る人)でさえ、彼に出会うたびに怖がって逃げ出してしまうほどです。

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03. 実現した摂理

山でドラジに夢中になって5年目のある日、やせた土の中からドラジの芽が出ているのを見つけました。驚いたことに、それは1ヶ月ほど前に捨てるのが惜しくて無造作に土に植えた、腐ったドラジから出てきたものでした。まさに、自然の摂理を実感した瞬間でした。
15年間、どんな農業技術を駆使しても、3年以上も生きられなかったドラジの命の秘密は、自然の中にあったのです。ドラジが本当に必要としていたのは、人間が作った肥料や栄養剤ではなく、純粋な土地から直接得られるエネルギーだったのだです。つまり、無造作に植えられた不毛の大地からエネルギーを吸収して、ドラジは蘇ったのです。
喜びと感謝の涙を流しながら、彼は身を伏せました。努力の末に神通力を発揮させてくれた天に感謝したのです。それは1970年のことで、彼がドラジに人生をかけ始めてから15年後のことでした。
1988年には、10年以上生きたドラジを栽培できるまでになりました。
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04. 自分では認められない成功と悔しさ

振り返ってみると、開発の過程は彼にとって困難で重要な時期だといえます。
10年以上生きた薬用のドラジがあるという噂が流れ、全国からドラジを買いに家に人々が来ました。苦しい思いをしてきた彼の家族は、「これでやっと幸せになれる」という希望に満ちていました。しかし、イ・ソンホはドラジの根を1本も売ることができませんでした。
なぜ、古いドラジが優れているのか、その仕組みを解明しなければならなかったからです。年々もののドラジであれば「薬」と呼べるのかも分かりませんでした。何の根拠もなく、自分の商品を売ることは意に反していたのです。山奥で一人寂しく暮らすよりも、大金を持ってやってくる人を、飢えた家族の元へ帰す方が心が痛んだのです。
長くドラジを育てることよりも、難しくて漠然としているように見え、彼は消耗していきました。家族から「ドラジに期待しないで生きていた方がよかった」という愚痴を聞かされ、罪悪感と自責の念に駆られ、ついにはドラジを完全に放棄するに至ってしまったのです。
この時、イ氏はドラジの栽培だけでなく、ドラジに関わるすべてのことを断念してしまいました。自分の子孫がドラジの栽培を始めることを恐れていたのです。その結果、今まで経験したことのないような大きな苦難を味わうことになるかもしれない、と。
何十年分もの記録が書かれたノートを、すべて燃やしてしまいました。これまでの努力や記録が灰になっていくのを見て、悲しくて辛くて泣いてしまいました。
さらに、これまで作ってきたドラジの酒を、作った年ごとに捨て始めたのです。一本、また一本と捨てていくうちに、彼はあることを発見しました。
20年物と21年物のドラジでは、作った酒の色が違うことに気づいたのです。同じ日に同じ時間に作ったはずなのに、21年もののドラジの方が色が濃いのです。

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05. 真実と特許を明らかにする

イ氏は、22年物のドラジワインの分析を教授に依頼するようになりました。
最初は、「ドラジはドラジだ。特別な結果は出ないはずだ。」という冷ややかな答えしか返ってこなかったといいます。しかし、何度も断られた後、慶尚大学の食品工学科でドラジワインの分析をしてもらうことができました。その結果、22年もののドラジは、通常の3年もののドラジとは明らかに異なる特徴を持っていることがわかったのです。この結果に基づいて特許を申請したのですが、これまた「頭のイカレた奴」だという扱いをされてしまったのです。
でも、そう思われても仕方がないと考えました。どこにでもあるような農産物を特許にするのは、そんなに簡単なことではないからです。ただの長生きする普通の作物にしか見えなかったのでしょう。
しかし、彼の非現実的な情熱と粘り強さが報われ、前例のないユニークな特徴を持つドラジに関する農業技術の特許を、取得することに成功したのです。その後も借金をしてまで研究に専念し、その成果は今後の発展に無限の可能性をもたらしたのであります。
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